歴史的偉人と一口に言ってもいろいろいますが、戦国武将の織田信長を挙げる人も多いと思います。
それもそのはず、織田信長は天下統一を目指し躍進した武将の一人で、同じ戦国武将の豊臣秀吉や徳川家康らへ大きな影響を与えた人物です。
若いころは「尾張の大うつけ(大バカ者)」と呼ばれ、それでも独自の生き方を貫き進み、もうすぐ天下統一というところで家臣・明智光秀に裏切られた織田信長。
その生き方や考え方は、現代においても活用できるのではないかと思ったため、織田信長の性格を調査・分析しました。
さらに、織田信長にどれだけ似ているかの自己診断、織田信長タイプの人に向いている職業、織田信長タイプの人との付き合い方についても考えてみたので、ご紹介します。
そこで、今回まとめた内容はこちら
- 織田信長はどういう性格?
- 豊臣秀吉や徳川家康との性格の違いは?
- 織田信長の性格はどういう職業に向いている?
- 織田信長の性格とうまく付き合うには?
織田信長の性格には表と裏があった
まずは、織田信長の性格を見ていきましょう。
調べてみると、一般的に知られている「表の性格」もあれば、あまり知られていない意外な「裏の性格」もありました。

これらの性格を、織田信長のエピソードと関連づけてご紹介します。
織田信長の表の性格その1「短気、残虐」
織田信長といえば、気が短くて残虐なイメージが強いと思います。
イメージのとおり、織田信長のエピソードでは短気かつ残虐な言動が多く見られました。
表の性格エピソード1-1「命令を無視した朝倉氏を攻撃」
足利義昭が将軍になったため、織田信長は越前(現在の福井県)の朝倉義景に対し、足利義昭のもとへあいさつに来るよう求めたが、朝倉義景はこれを無視した。
これに怒った織田信長は、浅井長政との約束※を破り、朝倉氏の重要な拠点である金ヶ崎城に攻め込んだ。
※織田信長と浅井長政が同盟を結ぶ際、浅井長政は「朝倉氏を攻めるときは相談する」ことを織田信長に約束させた。
怒りに身を任せて朝倉氏を攻撃してしまった結果、浅井長政の裏切りでピンチに立たされた、「金ヶ崎の戦い」でのエピソードです。
表の性格エピソード1-2「比叡山を焼き打ち」
比叡山延暦寺は、「僧兵」と呼ばれる武装した僧を多くかかえ、「志賀の陣」では織田信長に逆らい、浅井・朝倉軍に味方した。
これを許せなかった織田信長は、3万人の大軍で比叡山を一気に攻め、500以上の建物を焼き払い、これにより約3,000人が命を落とした。
比叡山の焼き打ちによって、僧だけでなく一般庶民、女性や子供も犠牲になったと言われています。
織田信長は元から僧が嫌いだったこともあり、自分の嫌いな者や敵は徹底的に攻撃することを信条としていたのかもしれませんね。
織田信長の表の性格その2「我が道を行く」
偉人に共通する性格として、他人と違うことをするというのがありますよね。
織田信長も自分の信じた道を突き進むタイプで、「我が道を行く」イメージが強い偉人の一人です。
表の性格エピソード2-1「尾張の大うつけ(大バカ者)」
若き日の織田信長は、湯帷子(ゆかたびら)に半袴(はんばかま)という派手な服装をしたり、柿をかじりながら町中を歩き回ったりなど、変わった行動をとっており、世間から「尾張(現在の愛知県)の大うつけ」を呼ばれていた。
15歳のときに斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)と結婚するが、うつけ行動はまったく直らず、家臣は「次期当主として、もう少ししっかりしてほしい」と頭を悩ませた。
良くも悪くも、自分のやりたいようにやるのが、織田信長の流儀なんですね。
表の性格エピソード2-2「安土城の石階段に石仏を使用」
織田信長は、安土城を築くときに、山全体を覆うほどの石垣や石階段をつくろうとした。
このため、大量の石が必要となったが、途中で石が足りなくなってしまった。
すると織田信長は、近くの寺や山道にあった石仏(石を彫ってつくった仏像)を持ってこさせ、石材として使わせた。
神仏を信じていなかった織田信長だからこそできた荒業ですよね。

織田信長の表の性格その3「知恵が働く」
厳しい戦国時代を生き抜くためには、知恵が必要です。
織田信長も頭を使い、さまざまな戦略や駆け引きを使っていました。
表の性格エピソード3-1「斎藤道三を感服させる」
美濃(現在の岐阜県)の斎藤道三は、織田信長が本当にうつけ者かどうかを確かめるため、美濃と尾張の国境にある正徳寺で織田信長に会うことにした。
会う前に斎藤道三が織田信長の行列をのぞき見たとき、織田信長はいつもの「うつけ者」の格好だったので、斎藤道三は「噂どおりのうつけ者か」と思った。
しかし、織田信長は正徳寺に着くと正装に着替えて部屋に入ったため、斎藤道三は驚き、感服した。
後に斎藤道三は、「わしの子供たちはやがて、あのうつけ者の家来になるだろう」と語ったそうですよ。
表の性格エピソード3-2「アンカリングで小牧山城を築く」
美濃の斎藤龍興を攻めるため、織田信長は清州城から北にある小牧山に城を築き、新たな本拠地にしようとした。
しかし、清州城から移りたくない家臣たちが反対すると予想した織田信長は、小牧山よりさらに北にある二ノ宮山に城を築くと言った。
案の定、家臣たちは反対したが、織田信長が「それでは、小牧山に変更する」と言うと、家臣たちは「近くなった」と反対しなかった。
これは「アンカリング」といって、先に与えられた情報が基準となって無意識のうちに判断が歪められる、認知バイアスの一つです。
つまり、「いきなり小牧山を提案すると反対されるが、二ノ宮山を提案した後で小牧山を提案すると、『二ノ宮山より近い小牧山の方がいい』と思わせることができる」ということです。
このような心理学的手法も使っていたなんて、織田信長はとても頭が良かったんですね。
織田信長の表の性格その4「新しいものが好き」
織田信長は、新しいもの好きで有名ですよね。
南蛮人(スペイン人やポルトガル人)が日本に来るようになり、織田信長は南蛮文化に強く興味を持つようになったと言われています。
表の性格エピソード4-1「南蛮文化を取り入れる」
キリスト教を広めるため日本にやってきた宣教師の一人に、ルイス・フロイスというポルトガル人がいた。
ルイス・フロイスは、織田信長に招かれ、二人はヨーロッパの気候や食べ物、城などについて2時間以上も話し込んだ。
織田信長自身はキリスト教を信じなかったが、キリスト教を認めることで南蛮貿易を有利に進め、大きな利益を得ようとした。
うつけ者と呼ばれた織田信長ですが、外国に対する偏見や固定観念にとらわれず、先を見通す力を持っていたんですね。
表の性格エピソード4-2「鉄砲をいち早く合戦に取り入れる」
1543年、種子島にポルトガル船が到着し、日本に鉄砲を伝えた。
織田信長はいち早く鉄砲に目をつけ、1575年の「長篠の戦い」では、武田勝頼率いる騎馬隊を3,000丁の鉄砲で迎え撃った。
最先端の技術を取り入れるのも、立派な才能だと思います。

織田信長の裏の性格その1「実は優しい」
続いては、織田信長の意外な一面がわかる「裏の性格」を見ていきましょう。
まずは、残虐なイメージの織田信長にも、実は優しい一面があったんです。
裏の性格エピソード1-1「反逆者を一度許す」
織田信長の父・織田信秀の死後、織田家の家臣である柴田勝家らは、織田信長の弟・織田信勝を当主にしようと考えた。
織田信勝もこれに賛同し、1,700人の兵を率いて織田信長に反乱を起こしたが、敗北。
この「稲生の戦い」の後、織田信長は、反乱を起こした織田信勝や柴田勝家らを許した。
反乱を起こした者を許すなんて、織田信長のイメージにはありませんでしたね。
ちなみに、織田信勝はその後また反乱を起こしますが、またも失敗し、今度は織田信長に処刑されました。
裏の性格エピソード1-2「明智光秀のピンチに駆けつける」
1576年、石山本願寺が毛利輝元と手を結んだことで勢いづいてきたため、織田信長は明智光秀に攻撃を命じた。
しかし、石山本願寺は雑賀孫一率いる雑賀衆を味方につけ反撃し、明智光秀の守る天王寺砦を取り囲んだ。
その報告を受けた織田信長は、甲冑も着ずに、すぐさま天王寺砦へ出発した。
あまりにも急だったため兵は3,000人しか集まらなかったが、織田信長は「天王寺砦を見殺しにすれば、世間の笑い者になる」と言い、足を鉄砲で撃たれながらも天王寺砦に駆けつけた。
後に「本能寺の変」で裏切る明智光秀ですが、実は織田信長にピンチを救ってもらっていたんですね。
織田信長の裏の性格その2「実は冷静」
頭に血がのぼって怒り狂うイメージの織田信長ですが、戦では意外と冷静な判断を下しています。
裏の性格エピソード2-1「初陣で活躍してもすぐ帰る」
織田信長の初陣は、1547年の「吉良・大浜の戦い」。
吉良・大浜(現在の愛知県)で駿河(現在の静岡県)の今川氏と戦った織田信長は、当時まだ14歳だった。
織田信長は、強風の日に今川軍の陣地に火矢で攻撃し、戦果を挙げた。
しかし、織田軍は今川軍より兵力が少なかったため、反撃されないよう翌日には那古野城へ帰っていった。
戦いに勝利しても調子に乗らず、その後のことを考えてすぐに撤収する冷静さを持っていました。
「勝って兜の緒を締めよ」とは、まさにこのことですね。

裏の性格エピソード2-2「怒りを抑えて一旦退却」
1570年の「金ヶ崎の戦い」で自分を裏切った浅井長政を、織田信長は許せなかった。
その後、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍とが激突する「姉川の戦い」が起こり、徳川家康の家臣・榊原康政らの活躍で織田・徳川軍が勝利した。
織田信長は、逃げる浅井・朝倉軍を追って小谷城に迫ったが、簡単に城を落とせないと判断し、引き返した。
裏切り者を許さない性格の織田信長ですが、優勢のときでも冷静に状況を判断し、撤退したというエピソードです。
「金ヶ崎の戦い」での失敗から、怒りを抑えることを学んだのかもしれませんね。
織田信長の裏の性格その3「実は我慢強い」
短気で有名な織田信長にも、意外と我慢強い一面がありました。
裏の性格エピソード3-1「10年かかった石山合戦」
「姉川の戦い」に勝利した織田信長は、近畿地方を完全に支配しようと考え、石山本願寺の最高責任者である顕如に「本願寺から出ろ」と命令。
しかし、これに怒った顕如は織田軍に攻撃を開始し、さらに全国の浄土真宗信者に呼びかけたことで、一向一揆が次々と起こった。
織田信長は、各地の一向一揆をしずめながら石山本願寺への攻撃を続けたが、顕如が反撃を続けたことで戦いは長引いた。
そのため、1570年に始まった「石山合戦」が1580年に収束するまで、10年もの年月が経っていた。
最終的には兵糧攻め(食料を運ぶ道を断ち、敵を飢えさせる作戦のこと)により何とか勝利した織田信長でしたが、なかなか敵が降伏せずイライラしたのではないかと思います。
裏の性格エピソード3-2「浅井・朝倉と仲直り」
織田信長が石山合戦を始めると、その隙を狙った浅井・朝倉軍は京都に向かって軍を進めた。
織田信長は急いで京都に戻ったが、浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺に立てこもった。
比叡山を包囲し「浅井・朝倉軍の味方をするな」と伝えた織田信長だったが、延暦寺がこれを無視したため、そのまま身動きが取れなくなった。
この隙に反対勢力が各地で反乱を起こし、追い詰められた織田信長は、しかたなく浅井・朝倉軍と仲直りをした。
プライドが高そうな織田信長でも、敵と仲直りすることがあったのは驚きです。
織田信長にも、優しかったり冷静で我慢強かったりする部分があったんですね。
さらにMBTI診断で性格タイプを分類してみた
織田信長は16世紀の人ですが、21世紀の現代にはさまざまな性格タイプ診断があります。
その一つである「マイヤーズ・ブリッグスタイプ指標(MBTI診断)」で織田信長の性格タイプを分類すると、どういう結果になるのか気になりますよね。
今となっては、織田信長本人に診断を依頼することはできませんので(できたとしてもその場で切り捨てられそうですが)、代わりに織田信長の気持ちになって診断してみました。
結果は、決断力で引っ張る「挑戦する人」タイプ。
「挑戦する人」とは、次のようなタイプです。
- 失敗を恐れないため、新しいことにも果敢に挑戦する。
- リーダーシップがあり、人を率先して引っ張っていく能力を持つ。
- ピンチやプレッシャーに強く、むしろそういった状況の方がやる気が湧くため、非常に頼もしい。
- 自己主張が強く、周囲の人から威圧的で怖いと思われがち。
- 自分にも他人にも厳しい反面、仲間を大切にする面倒見の良さもある。
- 独立心があり、起業家や組織のリーダーなどに多い。
- 人からコントロールされることが嫌いで、自分の能力を遺憾なく発揮するために、経営者の道を選ぶ人もいる。
失敗を恐れず、自分が先頭に立って人を引っ張っていき、逆境にも強い。
また、自己主張が強いと同時に仲間思いで、リーダーに向いている人と言えます。
まさに、織田信長のイメージそのものだと考えられますよね。
豊臣秀吉や徳川家康との違い

※画像は、左から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
織田信長と並んで紹介される戦国武将に、豊臣秀吉と徳川家康が挙げられます。
豊臣秀吉は、織田信長に「猿」と呼ばれ可愛がられた家臣で、寒い日に織田信長の草履を懐で温めたというエピソードは有名ですよね。
織田信長の死後、後継者となった豊臣秀吉は、1590年に天下統一を成し遂げました。
徳川家康は、幼少期に織田氏の人質になるなど、大名の中でも弱い立場にあった苦労人です。
その後は織田信長の家臣として活躍し、ついには天下を取って江戸幕府を開き、徳川初代将軍として歴史に名を残しました。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康といえば、ほととぎすの句が有名ですね。
ほととぎすの句から、それぞれの性格がはっきりわかるので、一つずつ見ていきたいと思います。
織田信長の句「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」
自分の思い通りにならないならその場で処刑する、という「短気」な性格を表していますね。
豊臣秀吉の句「鳴かぬなら 鳴かせてみしょう ほととぎす」
「鳴かせてみしょう」は「鳴かせてみせよう」とも言いますが、あれこれ試して鳴かせようとする「工夫」が見られます。
徳川家康の句「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」
鳴くまで気長に待つという、「忍耐」の強い徳川家康を象徴する句ですね。
何でも力でねじ伏せようとする織田信長に対し、豊臣秀吉は頭を使い工夫することで上手く世渡りしてきたように見えますし、徳川家康はとにかく耐え忍んでチャンスを待っていたと考えられます。
こうして見ると、三者三様で面白いですね。
あなたの織田信長度は何%?
ところで、これを読んでいるあなたは、どれくらい織田信長に似ているのでしょうか?
簡単な織田信長度チェックリストを作成したので、ぜひ診断してみてください。
織田信長度チェックリスト(YESかNOでお答えください)
- 自分が一番でなければ気が済まない
- 自分のことは何でも自分で決めたい
- 嫌なことをされたらやり返す
- 目的のためならなりふり構わない
- サボっている人を見ると腹が立つ
- 周りから何を言われても気にしない
- 何事も全力で取り組む
- お金を稼ぐことは大切だと思う
- 意見の合わない人は追い出す
- 新しいものが好き
あなたの織田信長度は、【YESの数×10%】です!
織田信長タイプの人は個人事業主が向いている
織田信長度チェックリストの結果はいかがでしたか?
織田信長度の高さは良し悪しではなく、自分のタイプを理解する手段だと思ってください。
次は、織田信長度の高い人、つまり織田信長タイプの人は何が得意なのか、向いている職業をご紹介します。
織田信長タイプの人に向いている職業:個人事業主(実業家)、フリーライター、研究者
織田信長タイプの人は、自分の信念を貫き通す力があるので、個人で事業を起こすのが向いていると言えます。
また、自分の言葉を発信するフリーライター、一つのことを突き詰めていく研究者も織田信長タイプに合っていますね。
ちなみに、豊臣秀吉のような人は社交的な接客業や営業職、徳川家康のような人は親身になってくれるカウンセラーやコンサルタント業が向いていると思います。
織田信長タイプの人とうまく付き合うには実力と機転が必要
では逆に、上司や顧客といった周りの人が織田信長タイプの場合、どのように付き合っていけばいいかを考えます。
必要なものは、「実力」と「機転」の2つです。
1つ目の「実力」は、実力があれば誰でも出世させる能力主義の織田信長ですから、仕事ができなければ話になりません。
いくら口が達者でも、実績が伴っていなければ織田信長タイプから認められないので、信頼させるために実力が必要です。
2つ目の「機転」は、豊臣秀吉が草履を温めたエピソードにあるように、織田信長は機転の利く家臣を可愛がっていたと考えます。
そのため、言われたことだけをしていたのでは織田信長タイプは満足しませんので、臨機応変な行動を心がけてください。
まとめ
- 織田信長は、「短気、残虐」「我が道を行く」「知恵が働く」「新しいものが好き」という性格のほかに、「優しい」「冷静」「我慢強い」という意外な一面もある。
- 織田信長が短気であるのに対し、豊臣秀吉はあれこれ工夫し、徳川家康はとにかく忍耐する性格。
- 織田信長タイプの人は、個人事業主やフリーライター、研究者が向いている。
- 織田信長タイプの人とうまく付き合うには、確かな実力に加えて機転が利くことが必要。
怖いイメージだった織田信長のことが、少し好きになりました。
その人をよく知れば、良いところも必ず見つかるものですね。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
寂しいのでコメントお願いします。